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  • 執筆者の写真秋山 健一郎

終身雇用の功罪


 

日経新聞の経済教室に「終身雇用の功罪」と題して8月28日から30日までの3回にわたる連載が掲載された。大変重要な課題なのでそれぞれに関して気付いた点を書いてみたい。第1回目は昭和女子大学特命教授、八代尚宏氏の「生涯現役時代の雇用保障を」である。様々な視点から終身雇用制に関して議論されておられ大変参考になる。結論としては「転職の有無にかかわらず、個人の能力にふさわしい職務に就くことで生涯現役の働き方ができる。これが新しい長期雇用保障の本来の姿と言える」となっている。


結論に異論はないが、提言されている内容を検討してみたい。まず「個人の能力にふさわしい職務に就く」ことが可能となるには、その個人がどのような能力を持っているかということと、その能力を必要とする企業があるということが前提条件となる。これは長期雇用とか雇用流動化だけで議論されるものではなく、個人と企業の意思・意向(ビジョン・戦略ともいえる)と現状認識に対する総合的な議論が必要なテーマで、個人・企業それぞれが最善の選択をするためにあらゆる条件を検討する必要がある。結論として個人として同じ会社に勤め続ける、あるいは企業として該当する人材に働き続けて貰うという選択肢もあるであろう。総合的判断をする上で長期雇用保障がどう位置づけられるかという議論が必要であるが、提言が「労働移動」に偏っているように見受けられる。


冒頭「賃上げには各分野の労働生産性向上だけでなく、高生産性分野への労働移動が必要」と述べられているが、「高生産性分野への労働移動」とは何を指しているのか良く分からなない。自社内で高生産性分野を定義づけ・方向づけ・作り上げていくのは経営者の役割であり、そのような戦略を立てればその分野に社員を振り向けていくことは過去の日本企業が行ってきたことである。これは配置転換であり「労働移動」とは言わない。対象が社外の他企業ということであれば、その移動の判断を行うのは個人の側である。この文章には主体が誰なのか?賃上げに至るメカニズムはどのようなものか?が記載されていない。経営の視点から分かり易く書けば「経営者が賃上げをしようとすれば、高生産性分野への進出を決め、それを実現するために人材の採用・配置転換を行い、成功に導くことが必要である」となるであろう。「どこかの会社が高生産性分野で成功しているから、社員にそこに移動してください」とお願いするような経営者を前提としているのであろうか。経営者の役割・責任を無視あるいは軽視していると言える。


「大企業における勤続年数の長さ」にも言及されているが、勤続年数の長さは決して否定的にとらえるべきではなく、もっと前向きにとらえるべきであろう。企業経営の観点から言えば、人材採用・育成に当たりその人材が会社のビジョン・戦略を実現するために適した人材かどうかを見極める必要がある。企業が採用にかける手間暇が膨大なものとなるのは、その見極めのための確かな手段がないからである。長期雇用は長い時間をかけてその人材の総合的な評価が蓄積されているという利点がある。個人の側にとっても、その職場が本当に自分の生活・キャリアにとって意味のあるものかどうかを判断するに際して、長期雇用は大きな判断材料となる。社員が安心して仕事に取り組める環境を整えるという意味から重要な要素であると言える。これからは個人と企業との関係は一方的な関係ではなく、双方が対等な関係になりつつあると言われている状況の中では、長期雇用を標榜することは長期的なキャリアを考える個人に対してプラスのイメージを与えこそすれ、マイナスイメージとはなりえない。


八代氏は「1990年代以降の長期停滞期では長期雇用保障の負の側面が顕在化した」として「正社員の雇用維持に雇用保障なき非正社員の増加で対応した」とされているが、この対応は経営判断の大きな間違いであって、90年代に経営者がとるべき対応は、事業の高付加価値化・高生産性化、あるいはそれらが期待できる新規事業の構築であったはずである。コスト削減だけを狙った対応の結果が現在の長期停滞を招いたと言える。このような状況は政策的にも早い段階で手を打つべきだった。同一労働・同一賃金の考え方が本来の経営のあるべき姿として認識されていれば、安易にコスト削減に流れることはなかったと考えられる。その反省に基づいた経営の発想の転換がない限り、業績向上・賃金引上げへの道は難しいと言える。


長期雇用の負の側面としてもう一つ指摘されている「職務の不明確」はその通りで、これが負の側面の根源をなしていると考えられる。経営者が社員に明確な職務の定義を与えられないのは、明確なビジョン・戦略がないからであり、これこそが日本企業低迷の本質的な原因だと考えられる。「無限定な正社員の働き方」は、社員が何をすべきかが不明確で、上司の顔色を窺わざるを得ない状況に追い込んでいるから起こることである。日本の企業が高付加価値・高生産性の事業への進出が出来ないのは、経営者がその方向性を明示的に示せないところに起因する。結論としての「個人の能力にふさわしい職務に就くことで生涯現役の働き方ができる」ためには、その受け皿としての企業が提供できる職務がどのようなものか明示できることが大前提なのである。決して長期雇用保障が障害となっているわけではない。女性の社会進出も前提条件として職務の明確化があることは明らかである。長期雇用の議論には社会全体の利益を考え、その構成員(個人・企業・環境等々)視点から総合的な検討がなされるべきであろう。

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